5日目

4月19日 いざ出航!

いよいよ出船した文吉さん御一行。

 

「日吉丸」に乗って下関へ向かいますが、旅路は思うようには運ばぬもの。

「若松ノ前ニ掛リ甚ダナンギナリ」という一文から、旅の苦労が窺えます。風波や潮に捕まって難航してしまったのでしょうか。

文中には明記されていないものの、当時、若松では外洋船*への乗り換えが行われていたといいます。

もしかすると、乗り換えに難渋したのかもしれません。

(*外洋船…沿岸部や内海でなく外洋を渡る能力を持つ船のこと。)

 

船にはさまざまな地域から集まった人々が乗り合わせ、船内の賑やかな様子が思い浮かびます。文吉さん達はどのような語らいを交わしていたのでしょうか。

束の間の船上での出来事であっても、袖振り合うも多生の縁…こうした出会いこそ、旅の醍醐味なのかもしれません。

~この日のルートをチェック!~

黒崎湊~船に乗って下関へ

午前十時

明治初期、改暦によって不定時法は廃止され、現代と同じ定時法が採用されました。そのため文吉さん達が出船した「十時」は、現代の午前十時と同じ時刻を意味します。

黒崎湊

洞海湾に面した黒崎湊は、九州西南の諸藩の参勤交代の際にも利用されていました。現在は工場地帯に囲まれた緑地の中にひっそりと石碑が残されており、周辺には当時の湊の面影を伝える水面が広がっています。当時はここへたくさんの船が発着していたのでしょう。

黒崎湊跡地の石碑
跡地から望む洞海湾

船の乗合はどんな人々?

文中では「都合二十三人ノリ合」とありますが、人数を数えてみると二十二人。正しい乗合人数は不明なものの、船に乗り合わせた人々にも、それぞれ旅の目的地があるようです。現在の熊本県にあたる「肥後の国」からやって来た一行は、山梨県の日蓮宗総本山である身延山久遠寺へ『身延参り』へ向かう様子。宗像からの御一行は『四国参り』へ。当時、参詣の旅が盛んであったことが窺えます。

一方、「上座郡」からやって来たとい思われる”汐井籠”については、依然として謎が多いものの、恐らく『お相撲さん』であったと考えられます。というのも、実はまだまだ先の日付にはなるのですが、後日の5月24日の日記に『宿に戻ったところ、 本国・上座郡汐井籠という相撲取が酒を持ち込んで酒盛りを楽しんだ。』と、同じ”汐井籠”さんが再登場する場面があるのです!まさに合縁奇縁。人の縁が思わぬ形でつながり、旅の記録に小さな物語を刻んでいきます。(再登場をお楽しみに!)

頼もしい船の男達

さて、「日吉丸」にはもちろん水夫たちも乗船しています。聞き慣れない言葉ですが、『船頭』は船の操縦を担う者、『船親父』は漁船の親方、水夫たちを束ねる役目を指すようです。若い水夫達(グンナイも恐らく人名でしょう)に加え、炊事係の姿も!こうした人々の働きが、旅の道筋を頼もしく支えていたことが伺えます。