2日目

4月16日 吉田切抜って?

唐津街道を歩いて行く旅の御一行。

底井野往還を通って、次の宿場町へ向かいます。道中では「吉田切抜」を見物し、長崎街道の黒崎宿の「櫻屋」へ。

 

明治と今で同じ道とは言えませんが、現在の地図で同じ旅路を歩くとなると、距離にして約40km、8時間~9時間ほどかかる見込みです。当時、街道沿いの宿場町は大体1日に歩ける距離を目安に配置されていました。朝に出発して、夕方に次の宿場へ着くという設計です。

 

とはいえ、一日40kmの道のり。

舗装路もなく、草鞋履きで歩き続ける道のりは、現代人の感覚ではなかなか想像がつきません。峠を越え、雨風にさらされ、ときには荷を担ぎながら進む旅人たちの健脚ぶりには驚かされます。

 

それでも、街道には茶屋があり、行き交う旅人との出会いがあり、宿場町に着けば湯や食事が待っていました。長い道のりの先に灯る宿の明かりは、きっと何よりの励みだったのでしょう。

~この日のルートをチェック!~

徒歩で青柳宿~六反田で昼食~底井野往還を通り~黒崎宿へ

八反田?六反田?

八反田で昼食を済ませた文吉さん御一行。

「八反田」は各地に見られるな地名で、遠賀・鞍手・宗像周辺などでも確認できますが、いずれも街道からやや離れた場所に位置しています。街道から外れた場所であっても、旅人が食事処や休憩所を求めて立ち寄った可能性はありますが、一体どの「八反田」を指すのでしょうか?

―そんな中、新たに「六反田説」が浮上しました。というのも、「六反田」という地名が福岡県鞍手郡鞍手町の新延交差点付近に存在しており、当時のルートを考えると、こちらのほうが自然ではないかとも考えられるので、今回のルートは六反田と仮定しました。

八反田へわざわざ足を延ばして立ち寄ったのか。それとも地名の誤記なのか、あるいは時代の中で名称が変化したのか―。さまざまな推測が飛び交いましたが、文吉さんたちの足取りの真相はいまだ謎に包まれています。

底井野

江戸時代、福岡藩の参勤交代の道中で利用された底井野往還(そこいのおうかん)は、唐津街道から分岐し木屋瀬を通らず黒崎へと抜ける“近道”として多くの旅人がこの道を通ったといわれています。

底井野往還の中間点にある底井野村は旅人や商人の往来も多く、道筋には商家がならび福岡藩主の別荘である”御茶屋”では遊猟がおこなわれるなど、当時は非常に隆盛していたようです。

底井野に鎮座する月瀬八幡宮

吉田切抜

遠賀川分流の堀川は、江戸時代に人の手によって掘られた遠賀川と洞海湾を結ぶ約12キロの人工運河です。

江戸時代初め、遠賀川はたびたび大雨で洪水を起こし大きな被害をもたらしていました。このような状況から筑前藩主・黒田長政が、洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を開削することにしたのです。
1621年に着工し、建設中には長政の死去、藩の財政難、大飢饉など幾多の困難に直面しながら183年もの歳月をかけて1804年に完成しました。

この工事の難所は、吉田村車返(現・水巻町吉田東)から折尾大膳(現・北九州市八幡西区大膳)に至る岩山の切貫工事だったそうです。
この岩山を金づちやノミを使い、約9年の歳月をかけて切り開く難工事でした。今でも岸壁に残るノミ跡は難工事の様子をつたえています。
文吉さんも岸壁を見物して先人たちの苦労を偲んだのかもしれません。
車返しの切り通し跡
ノミの跡や線刻文字が今でも残る岸壁

黒崎宿

 

江戸時代、主要な脇街道(五街道に準じる街道)として多くの人に利用されていた長崎街道。

黒崎宿は長崎街道に整備された宿駅のひとつで、交通の要所として大変賑わっていました。また、福岡藩では唯一、上方への渡海船が発着する港をもつ宿場町でもありました。

寺社仏閣や史跡が多数残され、中でも「曲里(まがり)の松並木」は今でも街道の面影を残しています。

曲里(まがり)の松並木