〈2日目〉 4月16日 吉田切抜って?

唐津街道を歩いて行く旅の御一行。

底井野往還を通って、長崎街道の黒崎宿へと辿り着いたようです。

八反田?…それとも六反田?

八反田で昼食を済ませたという文吉さんたち。

「八反田」はよくある地名で、遠賀、鞍手、宗像周辺でも確認できますが、いずれも街道から少し外れた場所に位置しています。
街道から逸れた場所であっても、旅人が食事処や休憩所を求めて立ち寄る可能性はありますが、一体どの「八反田」だろうか?…そんな時、新たに「六反田説」が浮上しました。というのも、”六反田”という地名が福岡県鞍手郡鞍手町の新延交差点にあり、ルートを鑑みるとどうもこちらのほうが自然に思えるのです。八反田へちょっと足をのばして立ち寄ったのか?それとも地名が変わったのか?はたまた書き間違いだろうか…?旅日記の調査にあたって、さまざまな推測が飛び交いましたが、文吉さんたちの旅路の真実は、いまだに謎につつまれています。

底井野

江戸時代、福岡藩の参勤交代の道中で利用された底井野往還(そこいのおうかん)は、唐津街道から分岐し、木屋瀬を通らず黒崎へと抜ける“近道”として多くの旅人がこの道を通ったといわれています。
底井野往還の中間点にある底井野村は 旅人や商人の往来も多く、道筋には商家がならび、福岡藩主の別荘である”御茶屋”では遊猟がおこなわれるなど、当時は非常に隆盛していたようです。

底井野に鎮座する月瀬八幡宮

吉田切抜

遠賀川分流の堀川は、江戸時代に人の手によって掘られた、遠賀川と洞海湾を結ぶ約12キロの人工運河です。
江戸時代初め、遠賀川はたびたび大雨で洪水をおこし、大きな被害をもたらしていました。このような状況から、筑前藩主・黒田長政が、洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を開削することにしたのです。1621年に着工し、建設中には長政の死去、藩の財政難、大飢饉など幾多の困難に直面しながら183年もの歳月をかけて1804年に完成しました。
この工事の難所は、吉田村車返(現・水巻町吉田東)から折尾大膳(現・北九州市八幡西区大膳)に至る岩山の切貫工事だったそうです。この岩山を金づちやノミを使い、約9年の歳月をかけて切り開く難工事でした。今でも岸壁に残るノミ跡は難工事の様子をつたえています。文吉さんも岸壁を見物して、先人たちの苦労を偲んだのかもしれません。
車返しの切り通し跡
ノミの跡や線刻文字が今でも残る岸壁

黒崎宿

 

江戸時代、長崎街道は主要な脇街道(五街道に準じる街道)として多くの人に利用されていました。黒崎宿は長崎街道に整備された宿駅のひとつで、交通の要所として大変な賑わいを見せていました。また、福岡藩では唯一、上方への渡海船が発着する港をもつ宿場町でもありました。今でも「曲里(まがり)の松並木」が、街道の面影を残しています。

美しい松並木
曲里の松並木の石碑