唐津街道を歩いて行く旅の御一行。
底井野往還を通って、長崎街道の黒崎宿へと辿り着いたようです。
八反田で昼食を済ませたという文吉さんたち。
「八反田」はよくある地名で、遠賀、鞍手、宗像周辺でも確認できますが、いずれも街道から少し外れた場所に位置しています。
街道から逸れた場所であっても、旅人が食事処や休憩所を求めて立ち寄る可能性はありますが、一体どの「八反田」だろうか?…そんな時、新たに「六反田説」が浮上しました。というのも、”六反田”という地名が福岡県鞍手郡鞍手町の新延交差点にあり、ルートを鑑みるとどうもこちらのほうが自然に思えるのです。八反田へちょっと足をのばして立ち寄ったのか?それとも地名が変わったのか?はたまた書き間違いだろうか…?旅日記の調査にあたって、さまざまな推測が飛び交いましたが、文吉さんたちの旅路の真実は、いまだに謎につつまれています。
江戸時代、福岡藩の参勤交代の道中で利用された底井野往還(そこいのおうかん)は、唐津街道から分岐し、木屋瀬を通らず黒崎へと抜ける“近道”として多くの旅人がこの道を通ったといわれています。
底井野往還の中間点にある底井野村は 旅人や商人の往来も多く、道筋には商家がならび、福岡藩主の別荘である”御茶屋”では遊猟がおこなわれるなど、当時は非常に隆盛していたようです。
江戸時代、長崎街道は主要な脇街道(五街道に準じる街道)として多くの人に利用されていました。黒崎宿は長崎街道に整備された宿駅のひとつで、交通の要所として大変な賑わいを見せていました。また、福岡藩では唯一、上方への渡海船が発着する港をもつ宿場町でもありました。今でも「曲里(まがり)の松並木」が、街道の面影を残しています。